水原 吉一(みずはら よしかず)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣家の家臣。諱は吉勝(よしかつ)も用いているが、通称の水原 亀介(みずはら かめすけ)と署名する文書が多い。

略歴

紀伊の地侍であったが、初め羽柴秀長に属し、天正13年(1585年)3月3日、紀伊海部郡舟津内に100石を安堵される。

次いで羽柴秀吉に仕えて所領も丹波国へ移る。金切裂指物使番となった。秀吉の御使番衆の一人。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、秀吉が会津に進発するにあたっての沿道の工事奉行を、垣見家純・西川八右衛門・杉山源兵衛・友松次右衛門と共に務める。

文禄3年(1594年)3月21日、丹波から播磨船井郡妙薬寺村100石に移封。また同年の伏見城築城の普請奉行。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける動向は不明だが、その後、1,000石で豊臣秀頼に仕えており、慶長11年(1606年)、江戸城普請の際には出張して奉行を務め、慶長16年(1611年)の春には禁裏の普請を担当した。秀頼のもとでは奉行衆であったようだ。

大坂の陣における戦功の有無はわからないが、当時は大坂町奉行を務めていた。元和元年(1615年)5月8日に大坂城が落城すると逃亡して京都市中に潜伏していたが、5月14日に発見され、藤堂高虎が派遣した兵によって討たれた。

脚注

参考文献

  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1973年、243頁。 

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